【楽園王】授業終了につきおしゃべり開始

こんにちは、日野あかりです。

春に向けて三寒四温なのか、異常気象なのか、2月とは思えない気温ですね。ぬるちゃん。



だいぶ時間が経ってしまいましたが、1月26日で無事に千秋楽を迎えた楽園王「授業」のまとめを書きます。

とはいっても、もうすでに記憶が…という感じではあります。

いつもはもう少し早めにブログを書こうと思うのですが、今回は芝居をやっているなかで結構完結してしまって、言語として残す必要性をあんまり感じなかったということもあります。


今までやっていた芝居とはかなり方向性の違う演出が今回ついていまして、楽園王の特徴でもある「音」へのこだわりを体現するような部分が結構ありました。

セリフの音程、タイミング、速度…過去なんども再演している作品なので、方法もある種確立しているところからのスタート。

ただ、必ずしもそれを完コピするというわけではなく、日野あかりが演じるからこそ生まれる人間としての生理とか、そういうものを大事につくってみた次第です。

前回楽園王「エレクトリックガーデン」に出演した時にも思ったのですが、セリフやミザンス(立ち位置などの見え方についての指示)が自分を縛るものではなく、ツールとして自分が使いこなせるようになることが大切だなあ、と思います。

今回で言えば、イヨネスコの「授業」は古典作品というくくりに入ることもあり、また不条理劇でもあり、普通にセリフを入れるだけだと自分の言葉として発するのが結構難しいなーと思っていて。

そこに(長堀さんの言葉を借りていうと)「身体的なストーリー」を重ねていくことが今回の突破口になりました。


個人的な解釈でいうと、

今回教授を女性がやることによって、普通の授業だと生まれるジェンダーの問題というか、性による立場の問題みたいなものではなく、より普遍的な権力・支配/被支配の構造であることを結構意識していて、

かつ自分の経験からも考えた時に、適応障害みたいなものなのかなーというイメージが湧きました。(古典戯曲の解釈としては身も蓋もないけど)

なんらかのストレスを感じた時に、体のどこかに激痛が走ったり、涙がでてきたりする状態。ただストレス源による支配から逃れられない状況の時に、従順である自分と反抗したい自分(身体も含めて)との乖離が生じてくるんだろうな、とか考えて芝居をしてました。


堅苦しいことを書いてしまった。

なので今回芝居をしながら自分のなかの「筋」が完全に通せていて、まとめる必要がないかなとも思っていた次第です。でも改めて文字にしてみるとふむふむ。

あと今回の共演者である諸先輩方にもとっても影響?刺激?をいただいていて、わー、わたしもこういうふうにできるようになりたい!!と何度も稽古場で思ったり、笑ったりしてました。若造を暖かく見守ってくれてありがとうございました。


千秋楽後にも書いたんですが、長堀さんがとても良いことを言っていました。笑

わたしは古典戯曲が好きなのですが、大きな理由は確かにここにあるなと思っていて。「共感」「理解」みたいなものって、味の素みたいなことじゃないかという気がしてます。
みんなが口に入れて、すごくわかりやすく「美味しい」と感じるもの。

確かに美味しいし、食べたくなるし、満足感もあるんだけど、わたしは出汁が飲みたかったり、ん?これ何からできてるの?みたいなものを食べたかったりすることも多いです。

例えば感想を言い難いけど、なにかを感じるような作品。あともうちょっと自分の中で消化したい!と思うような作品。そんなものをこれからもやっていきたいなーと思っている次第です。


なんだか語る文章になっちゃいました。

いまは3月の公演の稽古をじわじわ進めていますので、そちらの告知も早々にしたいな。


なんらかのウィルスにみなさん気をつけて。

保坂さんに撮ってもらった宣材オフショット。


ひの

何者かになる過程

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